コンセプト目次
運営者の心構え
一行の文字数について
緑地に白文字ポリシー
ネタバレの定義
作品との関わり方について
作品との関わりは個人的
不快感をもよおさないサイト
批判のあり方
誕生年度が必須である理由
過去の投稿との整合性
世の中を今より少し肯定的に眺めるまなざし
作品との関わりは個人的なもの
「作品との関わりは個人的なもの」
作品に対しての評価というのは、わたしたちが一般的に考えている作品本来が持つ面白さだけには依存しないのではないの?という話です。 地球規模での知名度を誇り、もはや伝説的少年マンガと言ってもいい『ドラゴンボール』を例にして見ていきます。
『ドラゴンボール』とわたし
わたしの経験を例として説明していきたいと思います。
少年ジャンプで連載されていた『ドラゴンボール』はわたしも熱心な読者でした。この稿を書いている時点で、連載が終了してからの期間が10年くらいになり、ちょうどジャンプに連載されていた期間と同じ程度の時間が経過していることになります。
それでも、いまの小学生くらいの子どもたちにも依然として『ドラゴンボール』は読み継がれています。世代を超えて読まれ、愛されている少年マンガと言っていいでしょう。
連載が終了してから10年以上が経過しようという今現在。
いま現時点で中学生くらいの少年が友達に「これ面白いから読んでみ」と『ドラゴンボール』を全巻貸してあげたとします。はまって一気に読んだとすると、まぁ2週間ほどで読めるでしょうか。おそらくその中学生は面白いという感想を持つでしょう。
一方、わたしは連載の当初からずっとジャンプでフォローし続け、最終回を迎えるまで一度たりとも欠かすことなく少年ジャンプを購入し続け読み終えたという経歴のものです。
コミックスとジャンプという違いはあれども、紙に印刷されたマンガという点では内容的には全く同じ印刷物です。
さて、ここで問題にしているのは、その中学生とわたし、それぞれにおける『ドラゴンボール』という作品に対しての関係性の違いについてです。
わたしのドラゴンボール体験をもう少し詳細に追っていきます。
わたしが少年ジャンプを買いはじめたのは確か小3の頃だったろうと思います。当時、少年ジャンプは定価が170円で、これは間違いありません。悟空とクリリンが亀仙人の元で修行をする頃だったと思います。
ジャンプは、好きなものから読む派と前から順番に読んでいく派があるといわれていますが、わたしは断然好きなものから読んでいく派でありまして、『ドラゴンボール』の連載が終了するまで、ほぼずっとジャンプはドラゴンボールから読むというのが習慣になっていました。
友達と続きがどうなるのかと予想したり、意外な展開に驚いたり、とにかく完璧に作者の意のままにもてあそばれる、極めて優良な読者だったと思います。本当に誰よりも早く、5分でも早くジャンプにかぶりつきたいというような時期もありましたね。
分数のかけ算もできないような少年時代から、キリリと引き締まった好青年の容貌になる19歳の初夏まで1週間に1話のスピードで、ちびちびとその物語世界に関わり続けてきたわけです。
とりわけ鮮明な記憶となって残っている事があります。
わたしが中2の時の冬に、家の屋根裏を改築して、わたしたちに子ども部屋が作られました。そして、中3の夏が来る直前に、初めて自分の部屋にクーラーが導入されるという快挙が達成されることとなりました。
外はぎらつく暑さだというのに、窓はぴったりと閉め切り、自分の部屋で誰にもじゃまされずクーラーをガンガン効かせて冷たい麦茶を飲みながらジャンプを読む。
「ああ……、これ以上はもう何もいらない……くぅ〜最高!」
というような恍惚感の中で読んだまさしくそのときが、大きな刀をもった謎の男が現れて、悟空があれほど苦労して勝利したフリーザを瞬殺した時でした。
当時のこのような思い出とともに記憶されているので、何の資料を見なくても間違いなく断言できるのですが、トランクスがジャンプに初登場したのは1991年の夏です。
で、先ほどの中学生です。確かに面白くて時間を忘れて読んだという至福の経験であったとしても、1ヶ月もするとフリーザとセルはどっちが先だったっけ? などということになりかねないでしょう。
3回目の天下一武道会が終わったあと、亀仙人のひと言に気をもまされるという体験ももちろんないわけです。先ほど話題にしたトランクスにしても、「あれは誰だ?!」と、その正体が明かされることなくぶら下げられたまま、来週のジャンプが発売されるのを待つしかないという体験もありえません。そのままコミックスのページをめくっていけば話は進んでいくわけです。
結論
このような見解から作品を鑑賞する個人とその作品自体との関わりというものを見ていくと、同じ『ドラゴンボール』というマンガを読むという体験といっても、その濃度は当然関わり方によって全く異なってきます。
そうであるならば、「その作品をどのように体験したのか?」という部分を切り捨てて、作品に対しての客観的な評価をなすということが、少し無理のある行為であるようにも思えてきます。
このような理由により、このサイトでの重要な要素となる、文章を書いたひとのバックボーンが見える工夫を凝らすということにもつながってくるわけです。
その人の背景をなす部分が見えない状態のままで、作品についてのレビューを書いたとしても、意図しないようなねじれとなって伝わることが往々にしてあり得ます。そういったねじれは、文章を書いた人にも、それを読んだ読者にも健やかなものをもたらさないでしょう。
文章の書き手と、それを読む読者双方に健康的なコミュニケーションが成立するサイトにすることが目標です。
おまけ
以上がこのページでの主張です。
が、ついでにもう一つ、ここで例にとった『ドラゴンボール』と同様に、これまた金字塔的作品である『明日のジョー』についても言及しておきます。
『明日のジョー』については、わたしは当然リアルタイムの世代ではなく、20歳を超えたくらいの頃、古本屋で愛蔵版全16巻がセットで売られていたのを買い求めました。
とっくの昔に完結している、『明日のジョー』を買って読もうかというくらいですから、当然ラストのあの有名すぎるシーンは知っていましたし、力石に関する一連の出来事もほとんど知っていたわけです。
そんな事情もあり、全巻読み終えても「なるほど、こういうお話ですか」とどうしてもドライといいますか、既定事実の確認という要素が入り込むことを防ぐことができず、リアルタイムにはあったであろう熱狂のボルテージというものは湧き上がってきませんでした。
その作品自体が持つおもしろさもさることながら、今まで書いてきたように、その作品に対してどのような出会い方をするのかということも、同程度に重要な要素であると、わたしは考えます。
熱気を煽るようなメディアの側でのプロモーション戦略が功を奏して、その熱気に当てられて、あとから思い出してみれば、どうして当時あそこまではまってしまったのだろうと思えてしまうようなことも、中にはあるでしょう。
でも、作品との出会いというのは、そういうことも全部含めて、他の何ものにも代え難い独自の体験として位置づけられているわけですし、人それぞれ異なる感想を持って当然というのも説得力を持つでしょう。
むしろ、同じ作品の対しても関わり方一つで、これだけ感じ方にバリエーションが出るものなのかという多様性を楽しめるようになれば、このサイトもさらに面白くなっていくと思ったりもします。
最後に、コアな『ジョー』ファンはお気づきの事と思いますが、『ジョー』のタイトル表記に関しましては、ひらがなで『あしたのジョー』とするのが正解です。
図らずも、こういうところでこの一文を書いている筆者の『あしたのジョー』に対するコミットメントの薄さを露呈する結果となってしまいました。
ファンの方には謹んでお詫び申し上げます。
このように、関わり合いの濃度が、この種の無頓着さとなって現れるわけです。ですから、自分の好きなもの、自分にとって関わりの濃いところだけを選んで文章にするというのは、自然と文章の質の高さにもつながってくるのではないか、と思ったりもしています。
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